fumicheさんのQlip

  • <感想>先日読んだ「第四の消費」がとても面白かったので、同じ著者の本を…と1999年出版のものを読んでみた。面白かった。。。結局、自分がなんとなく感じ取っていたものを時代の解説と共に説明してくれるので、<なんとなく>が<明確>になるのが心地よい。
    この本は、住宅事情を中心とした戦後の「家族」と「消費」の話であるが、家族問題や郊外問題の本は何冊か今までも読んでいるが、それを「消費」と結びつけたものはなかったので非常に面白かった。「家族」や「家庭」というと、あたかも社会や時代からは独立した個別の家庭問題にように思ってしまうが、その在り方は、時代の影響を強く受けている。そして、戦後増加した「生産」を主体としない家族(サラリーマン家庭)の活動は「消費」がメインなわけだから、消費活動を軸に家族が形成されていくのは必然であろう。
    これは、100%無責任な私の予想なのだが、これから、事業の大小はあれど自営業が増えるのではないかと思っている。家庭の中に「生産」活動を取り戻したほうが良いような気がして、資金に乏しい我が家も畑を借りて野菜の生産を始めた。欲しい物もないのにショッピングセンターにダラダラ出かけていた週末から、鍬で大地を耕すという週末に移行したが、支出が減った!とか健康的になった!という以上に、世の中の見方が変わったように感じている。

    • mio
      約7時間前
      mio 
      確かに、家族の中に「生産」が取り入れられることで、家族の在り方やコミュニケーションの仕方が随分変わっていくでしょうね~。私はまだ消費の呪縛から完全には抜け出せていないところもあるけど、はっきり言って、「生産」をし始めると「消費」にはかなり興味が薄くなるような気がします。お金もむしろ次の生産に投資することばかり考えてしまったり・・・それはそれで余りに色気無い気もしてますが(笑)
    • fumiche
      約7時間前
      fumiche 
      >「生産」をし始めると「消費」にはかなり興味が薄くなるような気がします。お金もむしろ次の生産に投資することばかり考えてしまったり・・・

      そうなんですよね~。我が家も、浮いた野菜代で次は何をするか?ばかり考えてしまいます(笑)
  • 205ページ

    たとえば現在の40代、50代であれば、カーッと働いて、ダーッと休むという人生を理想とするが、フリマ的な人生は、つねにゆるやかに働いて、ゆるやかに休んでいるということであろう。仕事と余暇・遊びとの境界が曖昧なのである。それは大袈裟にいえば、近代を卒業した価値観である。近代的な、仕事と家庭(個人)と余暇(遊び)を分断する生活時間・生活空間のあり方に対する無意識の批評がフリマにはあるのだ。

  • 199ページ

    人生において本当に必要なものは少しのお金とたくさんの愛だろう。

    • fumiche
      1日前
      fumiche 
      <少しのお金>というか、<必要最低限のお金>かな。
    • Yamanekotei
      1日前
      Yamanekotei (仮)
      15年前私の周囲で羽振りの良かった人は今は悉く苦境にいます。最盛期が無ければ落ちぶれもしない、持ち過ぎるのは決して身の為にならない、ナントカ暇なしは身分相応、と自身に言い聞かせる日々です(落涙)
    • 223tudumi
      約16時間前
      223tudumi 扇子野郎
      昔の偉い人なんかは、宝物をいっぱい持つことは、とどのつまりそれを失うことにつながるから、程々になさいと言ってましたなあ。何事もほどほど。多く持てば多く持つほど、失う機会が増えて行く。
    • fumiche
      約16時間前
      fumiche 
      >Yamanekoteiさん。
      そうですね。。あぶく銭は、やはりあぶくと一緒に消えてしまいますね・・・(涙)でも、落ちぶれてもいいから駆け上がりたい!という人もいるのだと思います。登った人にしか見えない世界っていうのもありますからね…たとえその後落ちたとしても。。
    • fumiche
      約16時間前
      fumiche 
      >扇子野郎さん。
      やはり、過ぎたるは・・・ということでしょうか。
      でも、お金を稼ぐことは、けして悪いことではないと思うんですよね。ただ、お金というものが持ってるエネルギーみたいなものに、巻き込まれないようにしないといけませんね!プラスが大きければ、マイナスも大きいですから。それは仕方がないことなのかもしれませんね。
  • 193ページ

    郊外ニュータウンは、誰もが一生懸命働けば豊かな暮らしができるという戦後日本の価値観の現実的結晶である。地方から都会に出てきて、働いて、結婚して、子供ができて、2DKの団地に住んで、出世して、そして最後に買うのが郊外の一戸建てだ。学校も家庭もそういう価値観に統合され、勉強して、少しでもいい大学に入って、少しでもいい会社に入ることを子供に求めた。
    が、親にとっては汗水垂らした仕事中毒の報酬として得た小ぎれいな住宅も、子供にとってはただ息苦しいだけの檻かもしれない。親が欲しがった学歴も、これからの時代はあまり価値がなさそうに見える。戦後的な目標をもはや日本人全体が喪失している。中学生でもそれくらいの時代のにおいはかぎつけるだろう。
    それくらい「豊かな社会」に生きるということは、実は困難なことなのだが、貧しい社会から脱出してきた世代には、それがまったく感覚としてわからない。そこに現代の一つの不幸がある。

    貧しい社会では、社会的問題が発生する理由の多くが貧しさにあることが自明であったが、豊かな社会では、社会の問題や自分の不満の原因が豊かさにあるとは考えられにくい。本当は、まさに豊かさにこそ問題の根源があるのだが、誰もそうは考えない。だから現代の若者の不満は甘えとしてしか見なされない。

  • 186ページ

    こうしてみると、郊外は、その機能としては工場と等しい。
    郊外とは、工業製品化され、大量生産された街である。つまり、工場でつくられた街のようなものである。だからどこの地域の郊外も同じである。
    しかしそれだけではない。郊外はそれ自体が工場である。つまり、同じ人間を再生産する工場である。郊外は、勤勉な仕事人間という製品が少しでも長く働けるように毎日少しずつ修理するための場であり、いつかその製品が老朽化したときに備えて、次のスペアとしての子供を再生産する場である。その再生産活動は、「小さな箱」の中で、親から子へ、さらにその次の世代へとひきつがれていかねばならない。言いかえれば、郊外は「家族」という名の均質な製品を再生産しつづける工場なのである。
    「家族」は、前述したように高度経済成長期に大量生産された。その大量生産された家族が住んだのが大量生産された郊外であり、そして今度はその郊外が再生産機能を持って再び家族を大量生産するのだ。それが郊外のからくりだ。まるで永久機関のように、家族を大量に再生産し続けるのが、郊外の存在理由なのである。

  • 138ページ


    山田良治は「土地・持家コンプレックス」の中で、70年代以降、持ち家の建設が増加した第一の理由として、「企業とくに大企業の設備投資の停滞と金融市場の発展によって生じた財テク志向の下で、銀行貸付に対する需要が減退した。その結果、金融機関は住宅ローンを含む消費者ローンの分野へ積極的に進出」したと指摘している。
    ・・・・・・
    また、1971年のニクソンショックによる景気後退に対する景気刺激策として住宅建設が進められたことも重要である。本間義人によれば、1971年8月のニクソンショックの後、10月に政府は景気対策として住宅金融公庫融資の受付期間を2か月近く延長、72年にも同じように受付期間を延長して景気浮揚を図った。
    このとき、住宅金融公庫以外の民間金融機関の住宅ローン事業への規制も緩和され、都市銀行などが競って住宅金融分野に参入したという。さらに73年には第一次オイルショックがあり、またもや景気刺激策として公庫融資がとりあげられるなど、以後、景気後退のたびに住宅金利の引き下げなどの形で住宅建設を誘導する政策がとられるようになったのである。
    ・・・・・・
    それまでの住宅着工戸数は貸家と持家が同じくらいか、貸家の方が多い年もあったくらいであったが、1974年以降80年代初頭までは持ち家の建設戸数の方が貸家よりもかなり多くなる。同時期に、共同住宅よりも一戸建て住宅の着工戸数がかなり多くなり、また住宅金融公庫の資金による住宅着工戸数も急増している。明らかにこの時代に持ち家・一戸建て指向が強まったのである。
    ・・・・・・
    このように、高度経済成長期において、従業員の勤労意欲と忠誠心を向上させ、馬車馬のように働かせるために、持ち家政策は大きな役割を果たした。
    逆に言えば、持ち家は高度経済成長期につくられた幻想なのである。サラリーマンと専業主婦からなる核家族は、自分の家と土地を持たねばならなかった。工場労働者でも自分の家が持てるようになった。

  • 108ページ

    しかし、退屈な主婦でさえ企業のターゲットになった。「女性が自分の才能を生かせず、名前のない渇望をもち、主婦から抜けだそうとすれば、女性はもっと多くの物を買うだろう」とビジネスの世界は考えた。
    「女らしさの神話」で紹介されているビジネスマンは言っている。
    「主婦をアイデンティティと生きる目的と創造性の欠如した状態にしておけば、女性を操作して金儲けができるのです。適切に操作すれば、アメリカの主婦は、買い物をすることによって、今は欠乏しているアイデンティティと生きる目的とクリエイティビティと自己実現と、そして性的なよろこびをも感じることができるのです」

    • yukino-hotaru
      2日前
      yukino-hotaru hotaru
      怖いといえば怖いですね・・・。
    • fumiche
      2日前
      fumiche 
      確かに・・・。<自分>をしっかり持って生きていきたいですね!
  • 93ページ


    郊外生活者は、伝統的な規範を示してきた家族や他人から遠く離れていたので、非常に柔順なマーケットであるとも考えられた。生活の中で他人とつきあう時間が確実に減っていき、そのかわりにテレビと雑誌が国中をかつてないほど強くひとつに結びつけた。・・・
    彼らはたくさんテレビを見、たくさん雑誌を読み、それらを通して人生をいかに生きるべきかに関する理想を得ていると考えられた。彼らはまさにマスメディアを通じた広告戦略の理想的なターゲットだったのである。

    子供市場は消費市場におけるひとつの大きな力となっていった。「7歳以下の子どもの購買力を過小評価するな。子供はブランドロイヤリティがあり、親の商品選択に対して決定権を持っている」とある学者は1954年の広告学会で発言した。

    • yukino-hotaru
      2日前
      yukino-hotaru hotaru
      2012念の現在では、両親だけでなく、祖父母まで狙って成功する子供商品が溢れてることを思うと・・・。
  • 87ページ

    男性は仕事に専念し、給料を稼ぎ、郊外に家を買い、家の中を家電や家庭用品で埋めつくし、自動車を買う。女性は家事・育児専門の専業主婦となり、アメリカの最新技術の枠を集めたピカピカの新製品にかこまれて平和で幸福な暖かい家庭を築き、夫の出世を支え、子どもがより上級の教育を受けられるように世話をする。そういう家族像、女性像がニクソンの理想であった。しかしそれは単に家族の理想であるだけでなく、冷戦時代を戦うためのアメリカという国家にとっての武器だったのである。

  • 26ページ

    高度経済成長期、膨大な数の核家族が生まれ、彼らのすみかとして郊外が拡大していった。
    その意味で、家族や郊外というものは、高度経済成長期の日本においていわば意図的につくりだされてきた一種の「装置」である。その家族は自然なものでもないし、伝統的なものでもない。少なくとも、今われわれが普通に思い描く家族は、戦後の高度経済成長期につくられた、きわめて特殊なものでさる。
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    つまり家族は人々の欲望を充足させるだけでなく、同時に欲望を喚起する装置になった。すなわち、家族は大量生産されたのだ。団地や家電や自動車が大量生産されただけでなく、家族そのものが大量生産されたのだ。戦後の核家族とは大量生産された家族なのだ。そして家族はマスメディアを通じて大量に広告され、大衆によって大量に消費されたのである。